トルコ皆既日食と自動車事故  
 

2006-10/14 (Sat)

 
 

さて、事件から半年経ったし書くことにするか。

実は今年の3月トルコで車全壊の事故を起こした。事の顛末はこうだ。

私が皆既日食ハンターである事はご存知の方も多いと思う。今まで1999年のドイツ、2001年のマダカスカルとトライしたが、いずれもあと少しで皆既となる直前に雲が来て、想いが遂げられなかったわけであるが、今回は3度目の正直とばかり、トルコのキノコ岩の奇岩地帯、カッパドキアでその瞬間を見ようと計画し、会社を1週間休んで、鼻息を荒くして3月26日にトルコ入りしたのであった。

ドイツは家族で、マダカスカルは単独で乗り込んだが、今回はサラリーマン生活以来の付き合いである50過ぎてもまだ独身を貫く怪人ガボ様と行動を共にしたのであった。

現地の街、カイセリでフォードのレンタカーを借り、カッパドキアまでの100キロほどの道のりは実に天気も良く快適であった。もともとこの辺りほとんど砂漠地帯で、日食観察にはもって来いの場所である。

カッパドキアに着いた翌日の3月29日が皆既日食であった。日食は午後なので私ら二人は、なるべく皆既時間の長い日食地帯の中心に向かって車を走らせたのであった。しかし、中心、中心と拘り過ぎたため、幹線道路をはずれて、丘の方へ向かう狭い農道に入り込み、結果脱輪し、その復帰のためにジャッキを使うは手で土を掘り返すはで大変な目にあった。

もともと車を使った理由は、過去2回の苦い経験から、雲が来ても即移動する事によって適当な観測地帯へと機敏に動くためであったが、今回結局脱輪してスタックした事によって、その場所を動けなくなってしまったので笑い話である。だが、結果そこは何も障害物の無い丘陵地帯の絶好の観測場所で、神が「いいからそこで見なさい」と配慮してくださったかのようであった。

さて、皆既日食の事を触れておこう。

ほとんど皆既が近づくと、四方の地平線は夕方のように明るいままであるが、太陽の周りだけが丸くすっぽりと夜になった感じとなり、そこに星々が瞬き始める。しかし、地上は皆既となる最後の最後まで、かなり薄暗くなるものの夜にはならない。夜となるのはダイヤモンドリングが輝き、完全に太陽が月に隠れた瞬間いきなり「ドーン」と言う感じで夜になるのである。

それはちょうど、車がいきなり暗いトンネルに入った感じと思ってもらえば良い。逆に言うと太陽の光はほんの一筋でもかなり明るいと言う事である。

はるか彼方から月の影が空と大地を走りながら迫ってくる。これを見れるのは丘か山の上で、影が走ってくる方向に、開けた大地が臨める場所では無いと難しいが、今回はこのスタックのお蔭でその一大スペクタクルも十分堪能できた。通常なら夜は太陽が沈むに合わせて、徐々に迫ってくるものであるが、この皆既日食の場合はその夜が足早に天空を駆けてやって来るのである。

そしてダイヤモンドリング。太陽が月に完全に隠れる正にその瞬間に月の谷の合間からこぼれる最後の太陽の光が、ダイヤモンドのよう神々しく燦然と輝く一瞬だが、もうそれはそれは感動的。その後に続く、黒い太陽の周りに踊るプロミネンスとコロナの光景には、この大いなる宇宙を想像した力に対する畏敬と、自分もこの大自然の摂理の中に息づく神の子の一部であると感じずにはいられず、思わず涙が出たぞ。

皆既日食は数分であったが、太陽は黒と言うよりそれは深い深い群青色。そしてその姿は千手観音がコロナの手を乱舞させ、天空で華厳の舞を演じているかのようであった。ああ、生きてて良かった!

今までの2回の失敗を経ての今回は正に3度目の正直。車のスタックなどはすっ飛んでしまうほどの感動を胸に、ようやく本懐を遂げたのであった。

しかし、斯様な劇的な感動の代償はやはり用意されているのである。車のスタックも3時間ほど脱出に掛かったので、そこそこの代償を払ったかと思ったが、今回の感動に引き換えの代償としてはどうも物足り無かったようだ。

感動的な日食観察の後、日が暮れるまでまだまだ時間があったので、かなりの距離をドライブして、ホテルへの帰路に着いたのが既に夜。9時半までにホテルに戻らないと夕食が食べれないので、間に合わせるべく、明かりの無い丘の曲がりくねった道を70キロ程度のスピードを出して急いでいたのである。

とその時、いきなり眼前に横たわった巨木が現れた。明かりの無い曲がりくねった夜道をライトを下向きのまま約70キロのスピードで進んでいたら、まず障害物は避けられないとこの時痛感。

「え!何でこんなところに!」と思う間も無く、車はドッカーンとその巨木に突っ込んだ。そして破裂するエアバックと同乗者のうめき声。

私はぶつかる瞬間、全身をこわばらせたせいとその衝撃で、全身が痺れている。しかし、エアバックは下手すると顔面を骨折するほどの衝撃と聞いたが、何だかその瞬間は顔に優しくベールのようなものがまとわり付いた感じで、不思議な事に顔に衝撃はほとんど何も感じなかった。

我に帰るとガボ様は横で胸を押さえて倒れ込んでいる。これはいかん!車から出て彼を降ろそうと、助手席のドアを開けようとしたが車の前部がドア側にのめりこんでいて開かない。衝突でガソリンも漏れたらしくガソリン臭い。このまま火でもついたら大変だとの思いで、もう一度エイッとばかり思い切りドアを引っ張ったら、ギイギイいいながら何とかドアを開ける事ができた。

そしてガボ様を引っ張りだし路肩に寝かせたが「い、息ができない」と呻いてらっしゃる。あああ、これは大変な事をしてしまった、どうするかと考えていると、後続の車が止まり中からトルコ人が出てきた。そして彼は英語で「日本人か?」と聞いてきた。

この状況で英語が話せる人が出てきた事は既にラッキーであったが、何と彼は立教大学を卒業した知り合い知っているとの事で、即、その人を携帯で呼んでくれた。さすが親日国トルコ、ありがたや、ありがたや。このまま夜の砂漠地帯で途方に暮れるしか無いかと思っていたのに正に地獄に仏である。

車は前部が大破。ボンネットとバンパーがすっ飛んで、エンジンがむき出しになっている。跳ね飛ばした巨木は数十メートル先に転がっている。その時わかったが、その巨木は荷台に乗っていて、その荷台ごと吹っ飛ばしたのであった。

ほどなくして、その方が呼んでくれた救急車で、私ら二人はそこから20分ほど離れたネバシャヘルの街の病院へ運ばれ、精密検査を受けた。私はあの全壊事故にも関わらず、何の異常も無かったが、ガボ様は骨には異常は無かったものの、重度の打ち身でそのまま病院で経過を観察する事になった。

病院でその日本語の喋れるトルコの方と彼の経過を見守っていると、警察は元よりホテルの支配人や荷台を置き去りにした関係者らが続々とやってきた。ついでに新聞記者までやってきて写真を撮られたのは驚いた。現地の新聞に「ジャパニーズ、無謀運転の果てに病院行き」とか記事が出てたかもしれない。

数時間経過してガボ様も何とか起きれるようになったので、今度は深夜警察に行って事情聴取と相成った。ちなみにトルコは警察と軍隊が折衷であるようだ。

そこで、その荷台を置き去りにした関係者も現れて状況がわかったが、私の前の車が巨木を積んだ荷台を連結して走っていたが、その連結部がはずれ道路中央に置き去りにされてしまったとの事。外れたのがすぐわかった80歳!の爺ちゃんは慌てて車を路肩に止めて、荷台まで行こうとしていた矢先に、私の車が突っ込んだと言う状況であった。要するに、この爺ちゃんがもし荷台まで来ていたら、私は間違いなく彼を跳ねていたに違いない。ちょっとしたタイミングのずれで最悪の結果は避けられたが、いやいや思わずゾーっとした。

警察での事情聴取では、その爺ちゃんの親族だとか、木の運搬を頼んだ奴とか5,6人やってきて、「元々は木の運搬を運んだおまえのせいだ」とか「いや、この爺さんに運転を頼んだおまえが悪い」とか目の前で争いになったようだが、(トルコ語なんでわからんが、通訳してくれたのでわかった)何はともあれこちらに過失は無く、レポートを作成してようやく未明にホテルに帰れる事となった。

ホテル側は夕食にありつけなかった私らに、サンドイッチを部屋に用意してくれてたが、私は兎も角、ガボさんは虫の息でそのまま床についてしまった。あああ、ごめんなさい!

そんな感じなので帰国は数日様子を見てと思ったが、ガボ様が何とか帰れるとの事なので、翌日レンタカー会社が用意した大きな送迎車で空港まで向かった。ちなみにレンタカー契約はフルフルの保険に入ってたので、事故については一切不問。そして、トルコ航空もガボ様のために広い席を用意してくれたり、いろいろ便宜を図ってくれたのはとても有り難い事であった。

機中、ガボ様も一時は緊急着陸が必要かなと思うほど調子を崩されたが、投薬の結果、何とか持ち直し、日本へ帰国する事ができたのである。今はガボ様は回復し、せっせと仕事をされている模様。何はともあれ、申し訳無い事をしてしまい、反省しきりである。

ガボ様、誠に申し訳ありませんでした。でも次回の皆既日食はまたよろしく。

その前にイビキを何とかしてくださいね。