ウンチングスタイル考察  
 

2004-7/29 (Thu)

 
 

日本に帰国して3年経つが、巷を徘徊するにつれ感心することがある。それはほとんどのトイレにウォシュレットが装備されていることだ。

何故、おぬしの話は下にまつわる話が多いのかと、いぶかれる読者も多いと思うが、そこに興味が沸くのは人間の本質かと。

で、そのウォシュレット、流石にここには無いだろうと思われるような場末のトイレにもそれが設置されて有り、驚く事が何回かあった。ニューヨークやロンドンの先進都市であっても考えられないだろう。

何故日本人は斯くも清潔好きなのであろうか?

私が思うに、やはり日本人の肌とか粘膜は、外人のそれと比べるとかなりデリケートだからではないのか?従い、なるべく摩擦を避け、菊のご紋を痛めずに、常に清潔を保つ事こそが、下々の病気から日本人を救う知恵で有り、それが、まだウォシュレット初期の頃、バイブレータ機能が無いがため、汚れをまんべん無く落とすべくトイレで腰をフリフリしてギックリ腰になった親父の犠牲などもあって、このウォシュレット文化を飛躍的に発展させたのだと思うわけである。違うだろうか?

そう言えばその昔、モスクワに行った事があるが、そこのホテルのトイレの紙は油紙と見まもう如き代物。あんなもので拭いて大丈夫な奴等と日本人はやはり一緒の人間では無いなと思った事
がある。

しかしだ。このウォシュレット、洋式便所で無いと装着できない事に着目してもらいたい。そう、この発展は「座りながら用は足せる」事を人類がまず発見した事が重要なポイントである。しかしながら、生理学的及び人間工学的に考えると所謂「ウンチングスタイル」はひる場合の自然なポーズ。然るに、最初に座ったままでもひれると発見した輩は一体どういった奴なのだろうか?

それもそのノウハウを人々に知らしめ、ある意味ではその異常な行為を人からどう思われるかをも省みず、人々に伝えた勇気を考えると、そいつの感覚は常人のそれでは無いように思える。しかしながら歴史上そいつはいたはずだ。先日のテレビで古代ローマ帝国の特集をやっていたが、その時代既に公衆トイレなるものが存在し、皆座りながら互いに向き合い用を足していたそうである。然るにその時代以前の奴が、既にこの方法を発見していたのであった。当時日本ではまだまだ和式であった事を考えると凄いよなあ。

話は変わるが、自然物の中に座ったままひれるような造形物を私はすぐには思い浮かべる事ができない。あなた何か思い当たるか?強いて言えば、切り株の真中が虫食いかなんかで、たまたま穴が空いている場合が想定されるが、それにしても、それを見つけたからと言って、穴の空いているその切り株にわざわざひるために座るのもいったいどう言う神経なのか?

また、ひょっとしたらその切り株の穴の中には、冬眠中のヤマネかなんかが、まだ来ぬ春を夢見て静かに寝息を立てていたかもしれない。その可愛い小動物の上にいきなり天から黄金が降り注いだのである。

嗚呼、想像するからに身の毛もよだつ出来事ではないか!

私はそのヤマネの事を思うと心が痛み、今日は寝れそうにもありません。