失う事  
 

2003-7/26 (Sat)

 
 

失う事を恐れない。

仏教の世界ではこれができると何も恐れる事は無いとよく言われる。しかしながら、持っているものを失うのは非常に辛い。

町田にいた時、「チャトラン」と言う野良猫を囲っていた。(2003年1月16日Diary参照)実は最近姿が見えない。何度か足を運んだが、どうやら河岸を変えたか、死んでしまったか。一応、囲っていた身からすれば、非常に複雑な心境である。「もっと構ってやれなかったか?」「やはり連れてこれなかったか?」等々。

でも、猫は「人」では無く、「場所」につくと言われ、野良猫を無理矢理連れてきても決して、本人にとって良い事では無いと思う。そういった点では、私も飼ってやりたかったが致し方ない部分もあった。また中途半端に構うのであれば、構う物では無いともわかった。毎日餌をあげてたのに、私が時折しか来なくなった事で、彼は随分と戸惑ったに違いない。

人間も同じであるなあと思う。最後まで面倒見切れないのならば、構うのは罪な事かもしれない。そう言った点からは、最近はそのメリハリを付け、構おうと思ったらトコトン構う。そうでなければ、放って置くと言うような感じになってきたかなと思う。

でもね、やはりやるだけやったなら悔いは無いが、いつかは持ってるものは失う。そこに未練とかはあるが、やはりくよくよせず前を見て生きねばならないなあと思う次第。

今日ふっと思ったのだが、持ってると思うから苦しいわけで、もともと持ってなかった、或いは既に失っていると思うことで、幾分気持ちが楽になるのがわかった。

道元が言っていたが、「全身が口となって虚空をくわえている。東西南北の風の中に立って、風鈴の如く透る声で自らの仏法を語る。ちりんちりん−。」

なんだかこの道元の気持ちが良くわかった気がした午後であった。