人間の限界  
 

2002-8/3 (Sat)

 
 

おしっこを我慢したことは誰にでもあるはずだ。

しかし、人間の限界を超えるような我慢。ただひたすら人間としての尊厳を保つが為に、自らの膀胱の許容範囲を遥かに超えて我慢した経験を持つ人間となるとそうはいないであろう。私はその一人だ。

それは3年ほど前の米国駐在時代の話だ。その時ちょうどゴルフを終え、ロングアイランドからマンハッタンに向かうハイウェイに私はいた。私の尿意は既にほぼ限界を通り過ぎて30分は経っていただろうか。周りは相変わらずの大渋滞で出口にも行き着けない状態であった。日本であれば刑法第37条の緊急避難的措置として高速の傍らでやっても罰せられないが、ここは米国である。いきなり射殺されるかもしれない。まろび出したまま息絶えるのだけは何としても避けたいところである。

やがて気分が悪くなってきた。当然、車内にはビニ−ル袋等、簡易トイレになるものは何も無い。この危機的状況下、何とかならないかと再度考えたところ、はっと閃いた解決方法があった。

実は魔法瓶を持っていることに気がついた。いつも私の健康保持の為に、妻が痩身茶を入れてくれてる奴だ。そうか、これに排出すれば良いと思い、かばんから取り出した。しかしまだ半分は残っている。このまま注いだら、ひょっとして瓶から溢れてしまう可能性がある。誰も自分の膀胱から出る尿の量がどの程度であるか検討がつかないであろう。ましてや、もう臨界状態の膀胱である。もし自分の量を知っていたとしても通常の量ではなくなっていることだって十分考え得る。やはりここは魔法瓶を空にしてから事を行うのが賢明である。

しかしここでもたげる私の貧乏症と言うべき悲しい性。このせっかく妻が作ったお茶を勿体無くて捨てられないのである。ちょっとドアを空けて流してしまえば済む話なのに、この究極の状況下に陥ってもそれができないのである。育ちの良さが恨めしい。

そこで、これは飲み干すしかないと思った私は、ゴクリと飲んだ瞬間に反射的に漏らすのではないかと言う不安を抱えながら、目をつむってそれを一気に飲み干したのである。これは何と言うか、傷口に塩とか泣き面に蜂とか言うような生半可な物では無い。ヨガの苦行のようなものであった気がする。要するに人間の限界を正に超えた。

しかし幸いな事にダムの決壊を引き起こす事も無く、飲み干すことができた。そして、周囲の車からこれから始まる異常な行為を見られないように、上着で下半身を覆うと体制を整えた。しかしここでまたまたもたげる人間としての尊厳。要は魔法瓶に放尿すると言うこの行為。これは言い換えればお皿に脱糞のようなものではないか?日頃の習慣と著しく逸脱する行為を前に私は自分のプライドと最後に戦っていたのである。

しかし、あっさりと私は自分のプライドを放棄した。躊躇したのも一瞬、考えてみればそんな事で葛藤している暇は無いのだ。そして、はやる心を静め魔法瓶の注ぎ口に狙いを定めた。ここで狙いをはずしたら元も子も無い。幸いな事に私の愚息は魔法瓶の注ぎ口にほぼピッタリとフィットしたのである。ペットボトルであったならきっと入らなかったであろう。女性の場合は大変な気がする。

そしてゆっくり深呼吸すると、一気に下半身の筋肉の緊張を緩めたのである。至福の瞬間であった。

不思議なもので元気良くほとばしるかと思いきや、むしろ最初は勢いがつかず、徐々に尿勢が増すのは新たな発見であった。そして溢れてしまうのでは無いかとの不安をよそに、それは見事に魔法瓶の注ぎ口の辺りで止まり、夕陽を受けキラキラとその水面を輝かせたのであった。そしてその水面の揺らぎはあたかも私の心のやすらぎのようでもあった。

帰宅し、早速その魔法瓶を持ってトイレに行った。静かに便器に注ぐと辛かった瞬間が走馬灯のように頭を駆け巡った。そしてその魔法瓶を洗うと、何事もなかったように「全部飲み干したよ」と言って妻に手渡したのであった。

その後、その魔法瓶を私は使ってない。