差別  
 

2001-12/11 (Tue)

 
 

ううむ。一昨日はちょっと思想的背景めいたものを書いてしまったので、異論を唱える人から何か来るかもしれないかと思うと緊張する。で、今日もその類をちょっと。

世間では差別用語なるものを定義し、その使用を禁止する動きがあるが、これどうも納得がいかない。と言うのは差別と言うのはもともとその言葉自体が持っているのでは無くて、差別しようとする人間の心の中にあると思うからだ。即ち、いくら言葉を規制しようとしても。人間の心が変わらない限り単なるそれは言葉狩りになってしまう。

「めくら蛇に怖じず」「キチガイに刃物」と言う類の諺すら、マスコミでは使用を禁じている。でもその言葉それぞれに、日本人が文化として育んできた良さがあると私は思うのだが。こんなのまで規制する意味が果たしてあるのだろうか?差別だ差別だと騒ぐ人間の方がよっぽど差別を心の中に抱いていると思うのは私だけだろうか?

同時にすぐ二言目に「セクハラ」だと騒ぐ風潮も納得がいかない。在米時代セクハラの研修を受けたが、例えば「お、今日は綺麗だね」(いつも汚いみたいじゃない)「センスがいいね」(皮肉に聞こえる)なども危険な言葉となる。

要するにこれらも( )のように思われる可能性があるので駄目だそうだ。要するに気持ちを潤わそうと掛ける言葉は危険なのである。と言うことは突き詰めて考えれば個人に関する話は一切するなと言う事になる。もっと言えば目も合わせてはいけないのだそうだ。

でも、ちょっとした誉め言葉も無く、目も合わせられないような乾いた職場こそ、何も生まないのでは無いか?

この「セクハラ」も要するに差別用語のように客観的に定義づけ出来るものでは無く、基本は言う人の気持と受ける側の気持ちが素直でありさえすれば良いだけのことでしょう。無論、人間同士そう簡単にいつも気分良く、その言葉通りに受け入れられるわけでは無いが、やっぱ言う人、受ける人の人格に起因するもので、同じ事を言っても良く取る人は良く取るし、ひねて取る奴はひねて取る。ひょっとしてお尻触っても許される人は許されるし、目が合っただけでも許されない人は許されない。

要するに危険を伴う余計な事を言わない事がガイドラインとなってしまうのだろうが、これを本当に実施したら、反って寒い職場になると思うがな。

かくゆう私もずいぶん余計な一言を言って地雷を踏んできたが、おべっかでは無く心から良いと思うことはつい我知らず、出てしまうのである。でもはずすんだよな。

ちなみに職場でお尻触った事はまだありません。